
その美しいルックスと演技力で新世代を牽引する、ティモシー・シャラメ、

大作からインディペンデント映画にまで引っ張りだこの、エル・ファニング、

世界の歌姫であり女優の、セレーナ・ゴメス、

今をときめくこの3人が共演し、
しかも、84歳の名匠ウディ・アレン監督の最新作と聞けば、

映画ファンなら誰しも「見たい!」と思う筈である。
特にエル・ファニングのファンであることを日頃から公言している私としては、
見ない筈がない作品である。
だが、私は、この作品を見ることを当初ちょっとだけ躊躇った。
何故か?
それは以下のような理由による。
2017年、
映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが、
多くのハリウッド女優にセクハラ行為や性的暴行を加えていたことが発覚。
その被害を受けた女優たちから告発されたことにより、
「#MeToo運動」などの女性の権利向上の運動が様々なメディア上で巻き起こり、
ハリウッドの男性たちの女性に対するセクハラ行為や性的暴行が次々と告発された。
この「#MeToo運動」で、ウディ・アレンも、過去の性的虐待疑惑が再浮上し、
ウディ・アレン自身と元パートナーのミア・ファローの養女、ディラン・ファローから性的虐待を告発されたことにより、
グリフィン・ニューマンやレベッカ・ホールが、TwitterやInstagramを通して、
本作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』に出演したことを後悔し、今後一切ウディ・アレンと仕事をしないとの声明を発表。
本作のギャラ全額を、RAINN(英語版)やTime's Up基金に寄付した。
2018年1月、主演のティモシー・シャラメも、Instagramで、
(アレンへの批判は避けたものの)本作への出演で報酬を得ることを望まない意向を発表し、
本作のギャラ全額をTime's Up基金、RAINN, ニューヨークのLGBTセンターに寄付した。
次いでセレーナ・ゴメスも本作での出演料を100万ドルほど上回る額をTime's Up基金に寄付した。
2018年3月、エル・ファニングも、本作への出演を後悔する声明を発表し、
Time's Up基金に寄付をしたことを明らかにした。
製作のAmazonスタジオも、批判を受けて、
2018年に公開予定だった本作のアメリカでの上映を無期限で延期し、
ウディ・アレンとの4本の映画の契約をキャンセルした。
これを不服として、ウディ・アレンは同スタジオを契約不履行で訴え、
後に和解。(和解内容は不明)
その後、ウディ・アレンの会社グラビエ・プロダクションが、2019年の秋に本作の国際配給権を獲得し、ギリシャ、リトアニア、スペイン、ニュージーランド、フランス、日本などで公開された。
しかし、アメリカでは未だ公開されていない。(2020年7月現在)
エル・ファニングが出演を後悔する声明を発表し、ギャラを寄付した作品を、
エル・ファニングのファンである私が見てよいものか……
悩んだ末に、私は見ることに決めた。
作品に罪はないし、(そうなのか?)
なによりもウディ・アレンがエル・ファニングをどう撮っているか見てみたかった。
で、本作の公開日(7月3日)から1週間遅れの7月10日に、
109シネマズ佐賀で鑑賞したのだった。

大学生のカップル、
ギャツビー(ティモシー・シャラメ)と、
アシュレー(エル・ファニング)は、





ニューヨークでロマンチックな週末を過ごそうとしていた。
きっかけは、アシュレーが学校の課題で有名な映画監督ローランド・ポラード(リーヴ・シュレイバー)にマンハッタンでインタビューをすることになったこと。





生粋のニューヨーカーのギャツビーは、
アリゾナ生まれのアシュレーに街を案内したくてたまらない。
ギャツビーは自分好みのデートプランを詰め込むが、
2人の計画は晴れた日の夕立のように瞬く間に狂い始める。


取材後に監督から最新作の内輪だけの試写に招かれたアシュレーは、
浮足立ってそのことをギャツビーに報告するが、




デートプランの変更を余儀なくされたギャツビーは不満を抱く。


それでも試写を優先したアシュレーは、



その試写で脚本家のテッド・ダヴィドフ(ジュード・ロウ)に会い、

その後、人気俳優のフランシスコ・ヴェガ(ディエゴ・ルナ)と知り合い、

食事にも誘われる。

人気俳優と一緒いるところを写真に撮られたアシュレーが、
「新恋人か?」
と、TVや新聞でと報道されているのを見て、

彼女であるアシュレーをスターに横取りされたと落ち込むギャツビー。

そんなギャツビーであったが、
元恋人の妹・チャン・ティレル(セレーナ・ゴメス)と街で偶然再会し、

しばらく一緒の時間を過ごしたり、

バーで知り合ったコールガールに急遽アシュレー役を頼んで両親に紹介するなど、

自分でも予想もしない展開に巻き込まれる。
果たして、若い二人の恋の行方は……

ニューヨークを舞台にした初期作品を彷彿させる、
いかにもウディ・アレンらしい映画であった。
当然のごとく、私はエル・ファニングしか見ていなかったのだが、
そのエル・ファニングの可愛いこと可愛いこと。
「可愛い」を100回くらい繰り返したいほどの史上最強の可愛さであった。

あのエル・ファニングに、
ど田舎出身の“世間知らず”で“軽く”て“能天気”な女子大生を演じさせようなんて、
誰が思いつくだろう。
(分っていたことではあるが)ウディ・アレンって、なんて人が悪く、意地悪なんだ。
しかし、そのお蔭で、
これまで見たことのないエル・ファニングに出逢えたのだから、
むしろ、ウディ・アレンに感謝しなければならないのかもしれない。
映画監督ローランド・ポラード(リーヴ・シュレイバー)、
脚本家のテッド・ダヴィドフ(ジュード・ロウ)、
人気俳優のフランシスコ・ヴェガ(ディエゴ・ルナ)の、
3人のおじさまにモテて舞い上がり、浮足立ち、

ニヤニヤ、ウキウキしているエル・ファニングなんて、
今後二度と見ることはできないかもしれない。

それほどの貴重映像であった。


〈若い娘好きのウディ・アレンの願望が投影されているのかも……〉
と考えると、ちょっと複雑な気持ちにさせられるが、
とにもかくにもエル・ファニングのクルクル変化するあの表情を見ることができたので、
私としては大満足であった。

ギャツビーの元恋人の妹・チャン・ティレルを演じたセレーナ・ゴメス。

女優であり、歌手でもあるので、
『ワイルド・ローズ』のジェシー・バックリーを思い起こさせるが、
セレーナ・ゴメスの顔は私好みではなくて、(コラコラ)
彼女が出ているシーンはあまり記憶がない。(笑)
エル・ファニングを「陽」とすれば、
セレーナ・ゴメスは「陰」の役で、
彼女の出演シーンには雨が降っていることが多かった。
「レイニーデイ」に相応しいのは彼女の方なのかもしれない。

ギャツビーが次第にチャン・ティレル(セレーナ・ゴメス)に惹かれていくのは、
ウディ・アレンの心情と重なる部分があったのだろう。

アシュレー(エル・ファニング)の方が重要な役なのに、
アシュレーの扱いがやや雑で、
あのラストシーンにも、(どんなラストシーンだ?)
(ウディ・アレンが)チャン・ティレル(セレーナ・ゴメス)に重きを置いているように感じたのは、私の思い過ごしだろうか……

ギャツビーを演じたティモシー・シャラメ。

『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』で彼を見たばかりであるが、
ウディ・アレンの若き頃を反映させた役であろうし、
(ウディ・アレンが若かったら自分で演じていただろう)
やや猫背で、うつむき加減に歩く姿など、ウディ・アレンを意識した役作りをしているように感じた。

当代随一の人気若手俳優に、自分を投影した役を演じさせるなんて、
ここにもウディ・アレンの84歳になっても枯れない熱情のようなものを感じる。
ギャツビーを演じるティモシー・シャラメが、
ピアノの弾き語りでスタンダード曲「エブリシング・ハプンズ・トゥ・ミー」を歌うシーンは秀逸で、彼のファンにとっては“至福のひととき”であったことと思われる。
(若き頃の)チェット・ベイカーを意識していたのかも……
Chet Baker「Everything Happens To Me」↓
ウディ・アレンの若き頃の自身を投影した役がギャツビー(ティモシー・シャラメ)だとすれば、
中高年のウディ・アレンを投影させた役は、
映画監督ローランド・ポラード(リーヴ・シュレイバー)であり、

脚本家のテッド・ダヴィドフ(ジュード・ロウ)であり、

人気俳優のフランシスコ・ヴェガ(ディエゴ・ルナ)であったろう。

監督であり、脚本家であり、俳優でもあるウディ・アレンは、
自身の分身を3人の男優に演じさせ、
自分の価値観や仕事に対するポリシーなどを語らせていたように感じた。
おじさんである3人に対し、
若いアシュレー(エル・ファニング)が好意を寄せ、
尊敬と憧れの眼差しを向けるなど、
おじさんに都合の良いストーリー展開になっているのは、
(若い娘好きの)ウディ・アレンの面目躍如といったところだろう。(コラコラ)

ウディ・アレンが描くニューヨークは、
黒人やアジア系の人物がほとんど登場せず、
人種差別問題も犯罪も存在しないかのような古き良きニューヨークのような感じで、
今のニューヨークとかけ離れた街に見えた。
ウディ・アレンにとってのノスタルジックなニューヨークで、
自身の願望や理想が反映された街として撮られていたと思った。

ノスタルジーは、罠だ。カミュはそれを「魅惑的な罠だ」と表現しているが、私は絶えずこの罠にはまってしまう。とくに、ニューヨークについて語るときには。私が子供の頃、ニューヨークは偉大な都市だった。1950年代の終わり頃までは、そうだったといえるだろうね。
それから、あまり好ましくないやり方で近代化が始まった。新しくて醜い場所が、昔ながらの魅力的なものに取って代わった。キャンディー・ショップが消え、交通状況は悪くなった。しばらくすると、犯罪がはびこった。いまじゃ、自転車が災害のようじゃないか! 道路に出ては人に襲いかかり、赤信号でも飛び出していく。狂ってる。
要するに、ニューヨークはもうかつてのニューヨークではないんだ。
と、某インタビューで語っていたが、
映画の中のニューヨークは、
現実には存在しない、ウディ・アレンの理想郷なのだと思った。
そのユートピアとも言える街に、
“雨”という魔法をかけ、
自身を投影させた男優たちに、
魅力的な若い女優を絡ませ、
ユーモアとアイロニーで彩ったのが、
『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』だと思った。

それにしても、
これほど可愛いエル・ファニングを見ることができるとは思っていなかった。
それを可能にしたのは、
ウディ・アレンの演出力もさることながら、
撮影を担当したビットリオ・ストラーロの映像の力もあったような気がする。

『地獄の黙示録』(1979)
『レッズ』(1981)
『ラストエンペラー』(1987)
で、3度もアカデミー賞撮影賞に輝き、
圧倒的な色彩感覚で知られる巨匠のカメラは、
エル・ファニングの美しさ、可愛らしさを見事に表現している。

ギャツビーは曇り空のニューヨークが好きだ。むしろ小雨が降るくらいの天気をより好み、アシュレーは明るく情熱的だから、彼女には暖色を使った。
ビットリオ・ストラーロは描き方の違いをこう語っていたが、
アシュレーの動きのあるシーンにはステディカムを、
ギャツビーのシーンには固定カメラを使ったという。
アシュレーの動きに必要な、自由さみたいなものを強調するためにステディカムを使ったんだ。彼女は固定観念に縛られることなく、あらゆることに対して積極的な性格。一方ギャツビーはよりシンプルな人間関係を求めるタイプの人間だ。
言うまでもなく、映画は、多くの才能が集結して創り上げる総合芸術だ。
監督だけでなく、
俳優、撮影、照明、美術、音楽、衣装、編集など、
多くのキャスト・スタッフがいて成り立つものだ。
そういう意味では、「作品に罪はない」と言える。
ウディ・アレンひとりのスキャンダルで(それも真実かどうかも分らない中で)、
本作を「見ない」というのは、あまりに勿体ない。
実際に見た『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は、
ティモシー・シャラメ、エル・ファニング、セレーナ・ゴメスの演技は良かったし、
映像も美しく、
物語としても面白かった。
そして、なによりエル・ファニングが可愛かった。(何回言う?)
映画館で、ぜひぜひ。