
一人読書会『戦争と平和』の4回目は、
第2巻の、

第2部、第1編の1章から16章を読んでみたいと思う。


1章
1806年の初め、ニコライは休暇で帰省した。デニーソフも同じくヴォロネジの生家へ帰省するところだったので、ニコライは彼を説得し、モスクワまで同乗し、ついでに自分の家に滞在していくよう計らっていた。ニコライが帰宅すると、ソーニャが、ナターシャが、ペーチャが、ドルベツコイ公爵夫人が、ヴェーラが、老伯爵が彼を抱きしめ、キスを浴びせた。母も遅れてやってきて、おいおい泣きながら彼の胸に顔をうずめた。誰にも気づかれずそっと部屋に入って来たデニーソフが、その場に立ち止まったまま、二人を見ながら目を拭っていた。ニコライは皆にデニーソフを紹介した。「まあすてき、デニーソフさんだわ!」ナターシャがそんな金切り声を上げると、彼に駆け寄り、抱き着いてキスをした。翌朝、長旅に疲れた者たちは9時過ぎまで寝ていた。ナターシャは兄を起こし、休憩室に連れて行き、そうして兄と妹の会話が始まった。いくら話しても話しきれなかった。一言ごとに笑い声をあげていた。「実は話があるのよ!」ナターシャが言った。「兄さんはソーニャと話すとき『あなた』と呼ぶの、それとも『君』と呼ぶの?」「それは成り行きだ」ニコライは答えた。「『あなた』と呼ぶようにして、お願いよ」「どうして?」「私たちは大の仲良しなの! で、彼女、いったん誰かを愛したら、そのままずっと愛し続ける人よ。だから、ソーニャはそんな風に私と兄さんのことを愛しているってことよ」ナターシャは急に顔を赤らめた。「彼女が言うには、自分はずっと兄さんのことを愛し続けるけれど、兄さんには自由でいてほしいって。どう、立派でしょう、そうでしょう?」「うん、よく分かった。それでお前はどうだ、ボリスを裏切ってないか?」「あの人のことも誰のことも私、考えてないし、知りたくもないわ」ナターシャはそう言って、「決して誰のお嫁さんにもならないわ。ダンサーになるんだから。ただし誰にも言わないでね」と付け加えた。
2章
軍からモスクワに一時帰省したニコライを、家の者は最高の息子で英雄の、いとしいニコールシカとして迎え、親戚は礼儀正しい好青年として迎え、知人たちはモスクワきっての花婿候補の一人として迎えた。ニコライ自身も、駿馬を買い入れ、最新流行の乗馬ズボンやブーツを手に入れ、大いに愉快な時を過ごしていた。彼は自分がすっかり成長して大人になった気がしていた。神学の試験に落第したことも、ソーニャとキスしたことも、思い出してみればすべて子供っぽいことばかりで、今の自分はそうしたことからはるか遠い場所にいる気がした。夜な夜な通う遊歩道界隈にはなじみの女性もいた。ニコライとソーニャの関係も、接近するどころか、逆に離れてしまった。〈あんな女はまだたくさんいるし、どこかにまだ僕の知らない女がいっぱいいる。いつか恋愛したくなったらそのときすればいい。今はそんな暇はない〉3月のはじめ父親のイリヤ・ロストフ伯爵は、イギリスクラブで開催されるバグラチオン公爵歓迎のディナー・パーティーの準備に忙殺されていた。ニコライ若伯爵にも、ベズーホフ伯爵宅を訪ねて、新鮮なイチゴとパイナップルを融通してもらうように言いつけた。そこへドルベツコイ公爵夫人がやってきて、「ベズーホフ家へは私が参りましょう」と言った。「ベズーホフ若伯爵が戻っていらっしゃいましたから、伯爵、今なら私たち、あのお宅の温室のものは何でも調達できますわ」伯爵が「ベズーホフ君に、レセプションに来るように言ってくださいよ。彼は奥方とはうまくいっていますかな?」と訊ねると、公爵夫人は天を仰ぐと、その顔には深い悲しみが浮かんだ。噂によると、ドーロホフとベズーホフ夫人がスキャンダラスな関係を結び、ピエールはすっかり悲しみに打ちひしがれているとのこと。「まあ、ともかくイギリスクラブに来るように言ってください。そうすればパッと気も晴れますよ」翌日の3月3日、午後1時過ぎ、イギリスクラブのメンバー250名とゲストの50名が顔をそろえて、主賓であるバグラチオン公爵が姿を現すのを待っていた。ロシア軍の兵士や将校がアウステルリッツで示した数々の武勇をめぐる新手のエピソードが、諸方面から続々と聞こえてきた。ベルグ中隊長のことも、彼を知らない者たちが話の種にしていたが、それによればベルグは右手に傷を負ってもひるまず、軍刀を左手に持ち替えて前進したのだった。アンドレイ・ボルコンスキーのことは何も語られなかったが、ただ身近に彼を知る者たちは、彼が身重の妻を変人の父のもとに残して夭折したことを惜しんだものである。
3章
3月3日、イギリスクラブのすべての部屋に会話の声がうなりのように立ち込めていた。その中にはデニーソフ、ニコライ、ドーロホフ、ネスヴィツキー、ピエールも含まれていた。一同がざわめきだし、駆け寄ってきたウエイターが「お見えになりました!」と告げた。控えの間の戸口にバグラチオンが姿を見せた。ロストフ伯爵はバグラチオン公爵を中央のソファーに腰掛けさせた。ロストフ伯爵が「乾杯がたくさんありますから、そろそろ始めますか!」とつぶやき、クラスを手にして立ち上がった。「皇帝陛下のご健勝を祝して!」そう叫ぶと同時に『勝利の雷轟きわたれ』が演奏された。皆が席を立ち、「ウラァー!」と叫んだ。グラスを一気に空けると、それを床に叩きつけた。そこでまたロストフ伯爵が立ち上がり、わが軍の今次の遠征の英雄であるピョートル・バグラチオン公爵の健勝を祝して乾杯を唱えた。するとまたもや300人の客の声が「ウラァー!」と叫び、ますます多くのグラスが割られ、ますます喚声が高まっていった。
4章
ピエールはドーロホフとニコライの正面の席に座っていた。彼はディナーの間ずっと黙りっぱなしで、放心したかのように眉間を指でこすっていた。彼を悩ましている問題とは、モスクワで例の公爵令嬢から、ドーロホフが彼の妻になれなれしい態度をとっているというほのめかしを受けたこと、この日の朝、一通の匿名の手紙が届き、下劣な冗談口調で、君の奥方とドーロホフの関係は君一人だけの秘密なのだよ、書かれていたことであった。かつて一緒に乱痴気騒ぎをした仲なのをいいことに、ドーロホフが帰還後まっすぐに彼の家にやってくると、ピエールはそのまま彼を家に住まわせ、金も貸したのだった。僕の名を汚して僕を笑い者にすることができれば、彼にとってはこの上ない喜びだろう。彼はドーロホフが残忍な感情に駆られた瞬間の、その顔の表情を思い出した。何の理由もなく人に決闘を申し込んだり、馬車の馬をピストルで撃ち殺したりしたときの表情である。〈そうだ、彼は決闘マニアだ〉ピエールは思った。〈人を殺すことなど彼には何でもない。きっと皆が自分を恐れていると思っていて、それでいい気分を味わっているに違いない〉クトゥーゾフのカンタータの歌詞を客に配っていたウエイターが、ピエールのもとにも1枚置いていった。彼が手に取ろうとしたとき、ドーロホフが彼の手から歌詞を奪い取り、読み始めた。「横取りはやめたまえ!」ピエールは叫んだ。「返さないよ」ドーロホフはきっぱりと言った。蒼白になって唇を震わせたピエールが、紙片をひったくった。「君は……ならず者だ!……君に決闘を申し込む」そう宣言すると、彼は椅子をずらして席を立った。翌日の朝8時、ピエールがネスヴィツキーに伴われてソコーリニキの森に着くと、そこにはすでにドーロホフ、デニーソフとニコライが揃っていた。すべての準備が整って、ここまで近寄っていいという境界を示すサーベルが雪に二本突き立てられ、ピストルが装填されると、ネスヴィツキーがピエールに歩み寄った。そして、ドーロホフに謝罪して決闘を止め和解するように言った。ピエールはそれを拒否し、同じく和解を試みたデニーソフに対しドーロホフも「謝罪などとんでもない、一切なしだ」と答え、所定の位置に着いた。
5章
「さあ、始めてくれ!」ドーロホフが言った。「いいでしょう」笑みを浮かべたままピエールが応じた。「両者ピストルを持って、三の合図で中央に向かって歩き始めてください」「一! 二! 三!」デニーソフは脇に退いた。二人は徐々に接近していった。境界線に至るまでの間に、どちらも好きな時に発砲してよいことになっていた。6歩ばかり進んでピエールはドーロホフを見ると引き金を引いて発砲した。立ち込めた銃煙が霧のために一層濃くなって、待ち構えていた相手の銃声はすぐには聞こえてこなかった。ただドーロホフのせかせかした足音が聞こえたかと思うと、その姿が煙の中から現れた。片手で左のわき腹を押さえ、ピストルを握った片手をだらりと下げている。顔面は蒼白だった。ニコライが駆け寄って話しかけた。「い……いや、まだ終わっていない」彼はピストルを持ち上げて狙いをつけ始めた。「横向きになって、ピストルで防御するのです」ネスヴィツキーが忠告した。「防御の構えを取って!」デニーソフまでが見ていられずに、敵のピエールに声をかけた。ピエールは憐れみと悔恨の混じった笑みを浮かべたまま、途方に暮れたように手足をひろげ、広い胸板を正面に向けたまま、ドーロホフに向かってたたずみ、悲し気に相手を見つめていた。発砲の音とドーロホフのいまいましげな叫び声を彼らは同時に聞いた。「外したか!」ドーロホフはそう叫ぶと、力なく雪に突っ伏した。ピエールは回れ右をすると、わけの分からぬ言葉を唱えながら森を目指して歩いて行った。ネスヴィツキーがそんな彼を押しとどめ、家に連れ帰った。ニコライとデニーソフは傷ついたドーロホフを橇に乗せて出発した。「どうだい? 気分は?」ニコライは訊ねた。「最悪だ! 俺はどうなってもいいが、あの人は耐えきれまい」「誰のこと?」ニコライが訊ねた。「母親さ」そう言うとドーロホフは泣き出した。幾分落ち着きを取り戻すと、彼はニコライに向かって、もしも母親が瀕死の自分を見たら、とても耐え切れないだろうという事情を説明し、母親のもとへ行って心の準備をさせてやってくれと懇願した。ニコライは一足先に行ってこの使命を果たしたが、そこでびっくりしたことに、この無頼漢で決闘マニアのドーロホフは、実はモスクワで老いた母と佝僂病の妹と暮らす、誰よりも優しい息子であり兄だったのだ。
6章
決闘の日の夜、彼は寝室で寝ることはせず、自分が使っている父親の巨大な書斎に残っていた。ソファーに横たわり、何もかも忘れて寝てしまおうと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。〈いったい何が起こったというのだ? 僕は情夫を殺した、そう、殺したんだ。なぜ? どうしてそんなことになったのだ? それはあんな女と結婚したからだ。そうだ。僕は一度も彼女を愛したことはなかった。僕は彼女が淫蕩な女だと気づいていた。だが、それを認める勇気がなかったんだ〉彼は真夜中に侍僕を呼びつけると、ペテルブルグへ発つから荷造りをするようにと命じた。妻と一つ屋根の下にいるのは不可能だった。夜が明けると、妻が落ち着いた堂々とした足取りで部屋に入って来た。すでに決闘のことは知っていて、その件で話しに来たのだった。「まったく、とんだ勇者気どりね! いったい何のために決闘なの? もし答えられないようなら、私から言ってあげるわ! あなたは人に言われたことを何でも信じるのよ。誰かに言われたんでしょ……ドーロホフが私の情夫だって。そしてあなたは信じたのよ! でもあなたはあれで何を証明したつもり? あんな決闘なんかで何が証明できたの? 証明できたのは、あなたがただのおバカさんだっていうことよ。その結果、私がモスクワ中の笑いものになるのよ。きっとみんなが言うわ̶̶あいつは酔った勢いで、血迷って決闘を申し込んだんだ、根拠もなしに嫉妬に狂って。どこから見ても自分より優れた男を相手に……」「僕に口を利かないでくれ……お願いだ」かすれ声でピエールはささやいた。「あなたのような夫を持ちながら愛人を作らない女なんてめったにいないけれど、私はそのめったにいない妻だったのよ」彼女は言った。「僕たちは別れた方がいい」彼は言った。「別れるっていうなら、かまわないわ。ただし私に財産をよこすんならね」エレーヌが言った。「別れるなんて、どうせ脅しでしょう!」ピエールはソファーから飛び起きると、よろめく足で妻に飛び掛かっていった。「貴様を殺してやる!」そう叫ぶと、テーブルにあった重い大理石の盤を持ち上げ、妻の頭上に振りかざした。エレーヌが恐ろしい形相になり、キャッと叫んで彼から飛びのいた。ピエールの父親の血があらわになった瞬間だった。彼は狂乱の歓びと快感を味わっていた。大理石の盤を投げつけて粉々にすると、エレーヌに歩み寄り、「出ていけ!」と叫んだ。もしもこの瞬間エレーヌが部屋から駆けだして行かなかったら、はたしてピエールは何をしでかしたか分からなかった。一週間後ピエールは、自分の財産の半分強に当たる大ロシアの領地全体の管理委任状を妻に与えて、一人でペテルブルグへと去った。
7章
アウステルリッツの会戦とアンドレイ公爵の戦死の報が禿山(ルイスィエ・ゴールィ)の領地に届いてから2ヶ月が過ぎた。ただ、散々大使館を通じて問い合わせ、あらゆる手段を使って探したにもかかわらず、アンドレイの遺体は見つからず、また捕虜の名簿にも彼の名はなかった。いつもの時間に娘のマリヤが父親の部屋に入って行くと、父は旋盤に向かって研磨仕事をしていた。「お父さま、アンドレイ兄さんが?」「知らせがあった。捕虜の中にもいないし、戦死者の中にもいない。クトゥーゾフがそう書いてよこした」彼はまるで娘をどなりつけて追い払おうとするかのように叫んだ。「戦死したんだ!」マリヤは父親に歩み寄り、手を取って引き寄せ、首をかき抱いた。「一緒に泣きましょう」「人でなしどもめ! 卑劣漢どもめ! 軍を滅ぼし、兵たちを滅ぼしやがった! 何のためだ? お前、行きなさい、行ってリーザに伝えるんだ」兄嫁は座って刺繍仕事をしているところだった。「アンドレイから何か言ってきたの?」「いいえ、まだ知らせが届くはずがないのはご存知でしょう。でもお父さまが心配なさって、私も恐ろしいの」「では、何でもないのね?」「そうよ」マリヤは兄嫁を見て言った。マリヤは兄嫁には話すまいと決心し、父親に対しても、兄嫁には隠しておくように説得した。
8章
「ねえ、マリヤさん」3月19日の朝、朝食の後でリーザ夫人が言った。「私、今日の朝食のせいで、なんだか具合が悪いようなの」「どうしたの、お義姉さま? お顔の色が悪いわ。あら、真っ青よ」「奥さま、マリヤ・ボグダーノヴナ(助産婦)を呼びにやりましょうか?」居合わせた小間使の一人が言った。「私が行くわ!」マリヤが部屋を駆けだした。見るともう行く手から、どっしりと落ち着き払った顔つきで助産婦が歩いてくる。「マリヤ・ボグダーノヴナ! どうも、始まったらしいの」マリヤが言った。「おや、それで結構なんですよ、お嬢さま」5分後、アンドレイ公爵の書斎にあった革張りのソファーが寝室に運び込まれた。老公爵は侍僕のチーホンに、どうしたか訊いてこいと命じて、助産婦のもとに送り出した。「公爵さまに、お産が始まったと伝えなさい」という助産婦の言葉をチーホンは戻って伝えた。「ねえお嬢さま、本道を誰かがやってきますよ!」ばあやが言った。「きっとお医者さまですね」マリヤは馬車の客を迎えに駆けだした。こちらに上って来る防寒ブーツの足音が聞こえる。そして誰かの、マリヤにはなじみのある気がする声が聞こえてきた。「それはよかった!」声が言った。「それで父上は?」防寒ブーツの足音がどんどん速度を増して近づいてくる。〈アンドレイ兄さん!〉マリヤは思った。〈いいえ、あり得ないわ、そんな不思議なこと〉そう思い直した途端、踊り場にアンドレイ公爵の顔と体が現れた。彼は階段を上って来て妹を抱きしめた。「僕の手紙を受け取らなかったのかい?」そう訊ねると、そのまま返事を待たず、また取って返し、後から上って来た産科医を連れて、速足でもう一度階段を上ってくると、もう一度妹を抱きしめたのだった。「何という運命だろう!」彼は言った。「ああ、マーシャ!」そう言うと毛皮外套とブーツを脱ぎ捨てて、妻の居室へと向かった。
9章
リーザ夫人はいくつものクッションに身を支えられ、白いナイトキャップを被ってソファーに横たわっていた。アンドレイ公爵は部屋に入ると、妻の正面の、彼女が横たわっているソファーの裾の位置に立った。夫が帰ってきたことに彼女は驚いてはいなかった。夫が帰ってきたことの意味が分からなかったのだ。夫の帰還は彼女の苦痛とその緩和に、何の影響も及ぼさなかった。またもや陣痛が始まり、助産婦がアンドレイ公爵に部屋を出るように勧めた。産科医が部屋に入ってきた。アンドレイ公爵は部屋を出たが、マリヤを見かけると、また彼女に近寄って行った。二人は小声で話し始めたが、会話はしょっちゅう途切れた。二人とも待ち構えて耳を澄ませていたからだ。哀れっぽい、寄る辺ない生き物のような呻き声がドアの向こうから聞こえてきた。喚き声は止み、そのまま数秒経った。突然、隣室ですさまじい絶叫が響いた。アンドレイ公爵はドアに駆け寄った。絶叫は鎮まったが、別の叫びが、赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。ドアが開き、医者が出てきた。顔を真っ青にして顎を震わせている。アンドレイ公爵は声をかけたが、医者は茫然とした目で彼を一瞥しただけで、一言も発せずに通り過ぎて行った。彼は妻のいる部屋に入っていった。妻は死んで横たわっていた。部屋の片隅で、助産婦に抱かれている小さな赤いものが、ブウと鼻音を立て、ヒーと泣き声を上げた。その2時間後、アンドレイ公爵は父親の書斎に入って行った。老人はすでにすべてを知っていた。両手で息子の首をつかむと、子供のように号泣し始めた。3日後、リーザ夫人の葬儀が行われ、さらに5日後、ニコライと名付けられた幼い公爵の洗礼式が催された。乳母が赤ん坊を抱いて出てくると、アンドレイ公爵はうれしそうにその顔を覗き込み、洗礼盤に投げ込まれた髪の毛を付けた蠟が沈まずに浮いたと乳母が告げると、よしという風に頷いてみせたのであった。
10章
ドーロホフとピエールの決闘にニコライが関与していたことは父親の伯爵の尽力でもみ消され、ニコライは覚悟していた降格処分の代わりに、モスクワ総督の副官に任命されるという計らいになった。ドーロホフはすっかり回復したが、ニコライはその回復期にこの相手ととりわけ親密な関係になった。傷が治るまでの間ドーロホフは母親の家にいたが、この息子を激しく愛してやまぬ母親マリヤ・イワーノヴナは、息子の友人だという理由でニコライが気に入り、しばしば彼を相手に息子の話をした。そのほとんどは、決闘の相手ピエールの悪口だった。秋になるとロストフ伯爵の一家がモスクワに戻ってきた。冬の初めにはデニーソフも帰還して、ロストフ家に滞在することになった。ニコライがモスクワで過ごしたこの1806年の初冬は、彼にとってもまた家族全員にとっても、最も幸せで楽しい時期の一つとなった。ヴェーラは20歳の美しい令嬢になっていた。ソーニャは咲き初めた花の魅力をふんだんにたたえた16歳の娘盛りだった。ナターシャは半分令嬢、半分小娘で、子供のように滑稽な真似をするかと思えば、乙女の魅力を漂わせているという風だった。ニコライが最初に家に連れてきた青年の一人がドーロホフだった。彼は家族全員に気に入られたが、ただしナターシャだけは別だった。ドーロホフは悪い人間であり、ピエールとの決闘でも、正しいのはピエールでドーロホフが悪かったのだと言い張ったのだ。彼が不愉快な、不自然な人間だとも主張した。「ドーロホフって人は何をするにも魂胆がある感じがして、それが嫌なの。兄さん知っている? あの人ソーニャのことが好きなのよ」「そんなばかな……」「確かよ、まあ、今に分かるわ」ナターシャの予言は当たっていた。ドーロホフが頻繁にこの家に出入りするようになり、訪問のお目当ては誰かという問題にも、じきにソーニャだという答えが出たのだった。ただしその美少女は他の人を愛していたのである。1806年の秋以降、またもや対ナポレオン戦争のうわさが、去年よりもさらに熱のこもった形で巷に飛び交うようになった。モスクワが来るべき戦争の話題でもちきりだった。ニコライはモスクワに残ることを承知せず、デニーソフの休暇が終わるのを待って、祝日明けに一緒に連隊に復帰しようとしていた。
11章
降誕祭週の3日目にニコライは家で食事をしたが、彼は神現祭明けにデニーソフと連隊に出立する予定だったので、この日のディナーは正式な送別の宴だったのである。席に着いていたのは20名ばかりで、ドーロホフとデニーソフもそこに混じっていた。ロストフ家の恋愛気分、心ときめく雰囲気は、まさにこの降誕祭週間に、いつにもまして盛り上がりを見せていた。とりわけ動揺していたのはソーニャ、ドーロホフ、母親の伯爵夫人で、ナターシャにも幾分その気配が見えた。ニコライはきっとディナーの前にソーニャとドーロホフの間に何かあったのだろうと推測した。ディナーが終わるとドーロホフはそそくさと姿を消したので、ナターシャを呼び寄せて事情を問いただした。「あの人、ソーニャにプロポーズしたのよ」これを聞いたニコライは、何か胸をえぐられるような感じを覚えた。「それがどうでしょう! あの人断ったの、きっぱりと断ったのよ!」しばし間をおいて彼女は言い添えた。「他に好きな人がいるからと言ってね」「ともかく、僕は彼女と話をしなくちゃならない」「兄さんのところに来させるわ」そう言うとナターシャは駆け去っていった。しばらくしてソーニャが入って来た。「ソーニャ、もしもあなたがこんなに素敵な、しかも有利な結婚話を断ってしまおうとしているなら……」ソーニャは彼の言葉を遮った。「私、もうお断りしました」「もしもあなたが僕のために断るとしたら……」「ニコライさん、それは言わないでください」「いや、僕は言わなくちゃいけない。もしもあなたが僕のために断るのなら、僕もあなたに本当のことを洗いざらい話しておく必要がある。僕はあなたを愛している、誰よりも愛しているつもりだ」「それで私は十分です」「いや、でもね、僕は恋をしたことなら何度でもあるし、これからも何度でも恋をするだろう。それに、僕はまだ若い。母もまだ僕の結婚を望んでいない。つまり、早い話が、僕はあなたに何もう約束できない。だから、ドーロホフのプロポーズのことを考え直してほしいんだ」「そんなことをおっしゃらないでください。私は何も望みません。私はあなたを兄として慕っておりますし、ずっと慕い続けます。それ以上何も要りません」
12章
ダンス教師ヨーゲルの舞踏会はモスクワで一番楽しい舞踏会だった。今回の舞踏会は大成功だった。美しい娘たちがたくさん集まったが、中でもロストフ家の二人の令嬢は最上の部類だった。二人はともにこの晩、格別に幸せで楽しい気分だった。ソーニャはドーロホフにプロポーズされたこと、自分がそれを断ったこと、さらにニコライと打ち明け話をしたことが誇らしく、こみ上げてくる喜びに全身を輝かせていた。ナターシャも、初めてロングドレスをまとって本物の舞踏会に出ることが負けず劣らず誇らしくて、ソーニャよりももっとうれしそうだった。ヨーゲルがニコライに歩み寄ってきて「ぜひ踊ってください、ほら、きれいなお嬢さんたちがいっぱいいるでしょう」と言った。ニコライはヨーゲルの勧めをかわし切れず、ソーニャをパートナーに誘った。デニーソフがマズルカの名手であることを知ってしたニコライは、ナターシャのもとに駆けつけ、「デニーソフと踊ってごらん」と勧めた。ナターシャはデニーソフいる片隅へ向かった。デニーソフとナターシャが笑顔で押し問答をしているのを見て、ニコライが「まあいいじゃないか」と加勢した。「あなたのために一晩中歌いますから」ナターシャが言った。「まったく魔法だね、僕を思い通りに操るんだから!」そう言うとデニーソフはサーベルを外し、フロアーに降りると、パートナーの片手をしっかりと握り、曲の切れ目を待った。曲の切れ目が来ると、彼はまるで鞠のようにしなやかに床から身を踊らせて、弧を描きながら飛ぶように疾走していった。マズルカで顔を真っ赤に紅潮させたデニーソフは、ハンカチで汗を拭うとナターシャの隣に座り込み、一晩中彼女のもとを離れようとしなかった。
13章
その後2日間、ニコライは自宅でドーロホフを見かけなかったし、訪ねて行っても不在で会えなかった。そして3日目に彼はドーロホフから短信を受け取った。「君も承知の理由から僕はもうお宅へ伺うつもりはないし、軍へ戻るので、今晩友人たちを招いてささやかな別れの宴を開くことにした。英国ホテルへ来てくれ」同日の9時過ぎ、ニコライは英国ホテルに赴いた。彼は直ちに、ドーロホフが一晩借り切った最高級の部屋に通された。見ると20人ばかりの男がテーブルに群がり、ドーロホフが胴元となって銀行ゲームが進行中だった。ドーロホフがソーニャにプロポーズして断られた後、ニコライは彼と会っておらず、会う時のことを考えるたびに気まずい思いを味わってきた。「久しぶりだな」相手は言った。「何度か君の家に寄ったんだよ」ニコライは言った。ドーロホフは返事をしない。「賭けてもいいぞ」彼は言った。その瞬間ニコライはドーロホフと交わした妙な会話を思い出した。「運をあてにして勝負するのは愚か者なかりさ」̶̶そのときドーロホフはそう言ったのだった。「それとも俺と勝負するのが怖いか?」ドーロホフはにやりと笑ってみせた。「現金を持っていないんだが」「信用張りでかまわん!」ニコライのカードはことごとく殺され、賭けの借りは800ルーブリまで嵩んでいた。彼はドーロホフに「早く挽回できるぞ」とそそのかされ、次のカードにも800ルーブリと書き込む。「実は諸君、聞いたところによると、モスクワではこの俺がいかさま師だという噂が流れているそうだ。そんなわけだから俺と付き合うときはくれぐれもご用心を」「カードを開いてくれよ!」ニコライが言った。そして、彼は負けた。「無茶は禁物だぞ」ちらりとニコライを見て、ドーロホフはさらにカードをめくり続けた。
14章
1時間半も経つと、もはや賭けをしている人間の大半は、自分の勝負などそっちのけだった。勝負はすっかりニコライ一人に集中していた。1600ルーブリだった借金額の後に、さらに延々と数字の列が書き足されていて、すでに20000ルーブリを超えていた。ドーロホフは総計が43000に達するまでこの勝負を続ける決意だった。彼がこの数字を選んだのは、自分とソーニャの年齢を足した数が43になるという理由からだった。〈挽回は不可能だ!……いったいどうして彼は俺をこんな目に遭わせるのだろう?……〉時折彼は大金を張ろうとしたが、ドーロホフは勝負を断り、自分から掛け金を指定した。そして、記録された負け金の額が運命の数字である43000に達した。「いつ金を受け取ればいいかな、伯爵?」「すぐに全額を払うことはできないから、手形を受け取ってくれ」彼は言った。「いいかい、ロストフ君、こういうことわざを知っているだろう̶̶恋愛運のいい者はカード運には恵まれないってね。君の従妹は君に惚れている。俺には分かったよ。君の従妹は……」「従妹には何の関係もないから、彼女を話題にすることはないだろう!」彼は逆上して叫んだ。「では、いつ払ってもらえるんだ?」ドーロホフが訊ねる。「明日」ニコライはそう答えて部屋を出た。
15章
「明日」と言って取り乱さずにいるのは難しくはなかったが、一人で家に帰り、妹たちや弟や母親や父親に会い、事情を打ち明けて、いったんあのような約束をした以上自分にねだる権利のない金をねだるのは、とんでもなく辛いことだった。家族はまだ寝てはいなかった。ソーニャとナターシャは劇場に着ていったままの空色のドレス姿で、とても美しく、幸せそうだった。デニーソフはクラヴィコードに向かって鍵盤を叩いて和音を拾いながら自作の詩「妖精」を歌っていた。ニコライを見た母親は「どうしたの?」と訊いた。「いや、どうもしません」彼は答えた。ソーニャの彼に向けられた視線も、〈ニコライさん、どうなさったの?〉と問いかけていた。彼女はたちまち、彼に何かあったのを悟ったのだ。ナターシャが歌い始めた。この瞬間、彼女は誰のことも何のことも考えてはいなかった。ナターシャはこの冬から初めて真剣に歌に取り組みだしたのだが、それはデニーソフが彼女の歌を絶賛したからだった。その歌いぶりはまだ上手というわけではなかったが、聴いた者はただその歌声に陶然として、もう一度聴いてみたいと思うのである。彼女の声には手つかずの処女地のような初々しさが、自らの力に無自覚な、加工される前のビロードのようなしなやかさがあって、それが技巧の不足ぶりとしっかりひとつになっていたので、どこか一つを変えようとすれば、声そのものを損なってしまいかねないという気がするのだ。妹の声を聴いたニコライは目を大きく見開いて考えた。〈あいつはいったいどうしたんだ? 今日の歌い方はどうだ?〉ニコライは思った。〈すべてが̶̶不運も、金も、ドーロホフも、憎しみも、名誉も̶̶何もかもつまらぬことだ……ただしこれは本物だ……。いいぞ、ナターシャ、ほら、頑張れ! いや、大したもんだ!〉ニコライの心のどこか最良の部分が共鳴し、その「どこか」こそ、世のすべてから全く自立し、世のすべてを超越した部分だった。どんな負けも、ドーロホフの輩も、自分のした約束も!……すべては些事にすぎない! たとえ人を斬り殺しても、盗んでも、それでもやはり幸せでいることができるのだ……。
16章
この日ニコライは、久々に音楽の歓びを心ゆくまで味わった。だがナターシャが歌い終えると、また現実が思い起こされた。彼は何も言わずに広間を出て、階下の自室に引っ込んだ。15分ほどして父親の伯爵が上機嫌でクラブから帰ってきた。ニコライは父の部屋に行った。「どうだ、楽しかったか?」父親は息子に語り掛けた。「父さん、用事があって来たんだ。金が要るんだ」「おやおや、たくさんかい?」「すごくたくさん」へらへらと投げやりな笑みを浮かべながらニコライは言った。「ちょっと賭けに負けちゃってね、いやちょっとじゃなくて、かなり負けが込んでね。43000さ」「何だって? 相手はだれだ?……冗談だろう?」父親は叫んだ。「明日返すって約束したんだ」ニコライは言った。「いやはや!」老いた父はソファーにくずおれた。「だって仕方ないじゃないか! 誰にだってあることだろう」息子はなれなれしい口調でずけずけと口にしたが、心の中では自分がろくでなしの卑劣漢だと自覚し、この罪は一生かけても償えないと感じていた。「そう、そうだな」父は言った。「難しいかもしれん、用意するのはな……誰にだってあることか! そう、誰にでもあることだよな……」そう言って部屋を出て行った。「父さん!」ニコライは泣き声になって背後から父親に呼びかけた。「許してください!」そう言って父親の手を掴んで唇を押し付け、さめざめと泣いたのだった。父親と息子が相談事をしていたちょうどその頃、母と娘の間でもこれに劣らず重要な事態が持ち上がっていた。デニーソフがナターシャにプロポーズしたのだ。娘からの報告を聞いて、母親は「ばかばかしい。もしもあのデニーソフさんがあなたにプロポーズしたというのが本当だったら、あの方にひとこと、あんたはバカだって言ってあげなさい」と言った。「いいえ、あの方はバカなんかじゃない」「そう、ならどうしたいの? 愛しているんだったら、結婚すればいいでしょう」鼻で笑いながら母親は言った。「お幸せに!」「いいえ、お母さま、私あの方を愛してはいない、間違いない、愛してはいないわ」「それならそうと相手に言えばいいでしょう。もしなんなら、私が出て行ってお話ししてもいいけれど」「いいえ、私が言うわ」ナターシャはデニーソフがいる広間に駆け込んだ。「ナタリアさん」彼女に歩み寄って彼は言った。「僕の運命を決めてください」「本当に申し訳なく思います!……だってあなたはとても素晴らしい方だから……でも、お受けできませんの……このお話……でも、私このままずっとあなたのことが好きですから」翌朝、もはや一日もモスクワにいることを望まないというデニーソフを、ニコライが見送った。デニーソフが出立したのち、ニコライは父親がかき集めるのに手こずっている金を待ちながら、さらに2週間をモスクワで過ごしたが、その間家から出ようとせず、主に妹たちの部屋で過ごした。妹たちのアルバムに詩や楽譜を散々書き込んだあげく、43000の金を耳をそろえてドーロホフに送り付け、受け取りを受領すると、彼は知人の誰にも別れを告げぬまま、11月末にすでにポーランドにいる自分の連隊を追って出立した。(第2部、第1編、終わり)
第2巻の、第2部、第1編(1章~16章)を読んだ。
とにかく面白く、イッキ読みだった。
とは言っても、要約をしなければならないので、
二度目はじっくり味わいながら読んだ。
今回の第2部、第1編は、
『戦争と平和』を読み始めて以来、一番の面白さだったと言ってよい。
この部分だけが面白いのか、
これからずっとこの面白さが持続していくのか分からないが、
これほどエンターテインメント性のある物語だとは正直思っていなかった。
第2部、第1編は、1806年の初め、
ニコライが休暇で(デニーソフを伴って)帰省するところから始まる。
ナターシャはニコライに、ソーニャを呼ぶときは「あなた」と呼ぶようにお願いする。
「どうして?」
「私たちは大の仲良しなの! で、彼女、いったん誰かを愛したら、そのままずっと愛し続ける人よ。だから、ソーニャはそんな風に私と兄さんのことを愛しているってことよ」
ナターシャは急に顔を赤らめて言う。
3月3日、ニコライの父親のイリヤ・ロストフ伯爵が準備した、
バグラチオン公爵歓迎のディナー・パーティーが開催され、
イギリスクラブのメンバー250名とゲストの50名が顔をそろえた。
ピエールはドーロホフとニコライの正面の席に座っていた。
彼はディナーの間ずっと黙りっぱなしで、
放心したかのように眉間を指でこすっていた。
彼を悩ましている問題とは、モスクワで例の公爵令嬢から、
ドーロホフが彼の妻になれなれしい態度をとっているというほのめかしを受けたこと、
この日の朝、一通の匿名の手紙が届き、下劣な冗談口調で、「君の奥方とドーロホフの関係は君一人だけの秘密なのだよ」と書かれていたことであった。
かつて一緒に乱痴気騒ぎをした仲なのをいいことに、
ドーロホフが帰還後まっすぐに彼の家にやってくると、
ピエールはそのまま彼を家に住まわせ、金も貸したのだった。
僕の名を汚して僕を笑い者にすることができれば、彼にとってはこの上ない喜びだろう。
彼はドーロホフが残忍な感情に駆られた瞬間の、その顔の表情を思い出した。
何の理由もなく人に決闘を申し込んだり、
馬車の馬をピストルで撃ち殺したりしたときの表情である。
クトゥーゾフのカンタータの歌詞を客に配っていたウエイターが、
ピエールのもとにも1枚置いていった。
彼が手に取ろうとしたとき、ドーロホフが彼の手から歌詞を奪い取り、読み始めた。
「横取りはやめたまえ!」ピエールは叫んだ。
「返さないよ」ドーロホフはきっぱりと言った。
蒼白になって唇を震わせたピエールが、紙片をひったくった。
「君は……ならず者だ!……君に決闘を申し込む」
この「横取りはやめたまえ!」「返さないよ」というやりとりは、
まさにピエールの妻のことを指している。
ピエールが決闘を申し込むのは、
ドーロホフに「妻は返さないよ」と言われたに等しかったからだ。
翌日の朝、ピエールとドーロホフは決闘をする。
予想に反して(かどうかは分からないが)、
決闘慣れしている筈のドーロホフがピエールに撃たれ重傷を負う。
決闘の日の翌朝、
妻が落ち着いた堂々とした足取りでピエールがいる部屋に入って来た。
すでに決闘のことは知っていて、その件で話しに来たのだった。
「まったく、とんだ勇者気どりね! いったい何のために決闘なの? もし答えられないようなら、私から言ってあげるわ! あなたは人に言われたことを何でも信じるのよ。誰かに言われたんでしょ……ドーロホフが私の情夫だって。そしてあなたは信じたのよ! でもあなたはあれで何を証明したつもり? あんな決闘なんかで何が証明できたの? 証明できたのは、あなたがただのおバカさんだっていうことよ。その結果、私がモスクワ中の笑いものになるのよ。きっとみんなが言うわ̶̶あいつは酔った勢いで、血迷って決闘を申し込んだんだ、根拠もなしに嫉妬に狂って。どこから見ても自分より優れた男を相手に……」
「僕たちは別れた方がいい」
彼は言った。
「別れるっていうなら、かまわないわ。ただし私に財産をよこすんならね」
エレーヌが言った。
「別れるなんて、どうせ脅しでしょう!」
ピエールはソファーから飛び起きると、よろめく足で妻に飛び掛かっていった。
「貴様を殺してやる!」
そう叫ぶと、テーブルにあった重い大理石の盤を持ち上げ、妻の頭上に振りかざした。
エレーヌが恐ろしい形相になり、キャッと叫んで彼から飛びのいた。
大理石の盤を投げつけて粉々にすると、エレーヌに歩み寄り、
「出ていけ!」と叫んだ。
もしもこの瞬間エレーヌが部屋から駆けだして行かなかったら、
はたしてピエールは何をしでかしたか分からなかった。
一週間後ピエールは、
自分の財産の半分強に当たる大ロシアの領地全体の管理委任状を妻に与えて、
一人でペテルブルグへと去った。
この描写を読んで、私はスカッとした。(コラコラ)
決闘といい、妻への「出ていけ!」といい、
〈ピエールって、案外やるじゃん〉
と思った。
死んだと思われていたアンドレイ公爵が帰還し、
妻リーザの出産に立ちあう。
だが、出産後、リーザは亡くなる。(7~9章)
ニコライはドーロホフの看病をしたりして、親友として友に尽くす。
ドーロホフも回復し、ニコライの家に度々出入りするようになる。
そしてドーロホフは、(ニコライに恋している)ソーニャを好きになり、
プロポーズをして、断られる。
ドーロホフは、ソーニャの心を独占するニコライを逆恨みし、
カードゲームに誘い、巨額(43000ルーブリ)の負債を負わせる。
このドーロホフは、
ピエールの妻にちょっかいを出したり、(それが決闘に発展)
親友であるニコライを逆恨みして巨額の負債を負わせる悪魔みたいな男であるが、
「第2部、第1編」における陰の主人公とも言え、
彼がいたればこその面白さだったとも言える。
この面白さが、「第2部、第2編」以降も続くことを切に願う。
