
村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだのは、もう23年も前のことだ。
上・下2冊本で、書店で買って読んだ。
本の帯に「100パーセントの恋愛小説」と書いてあったが、あまり恋愛小説という感じはしなかった。
登場人物は誰もが内省的で冷めており、性的描写はあるものの、どの人物も恋愛をしているようには見えなかった。
自殺する人が3人ほどいて、
その他、病死する人も描かれており、暗い感じの作品だったな~との印象がある。
主人公であるワタナベと、
自殺した友だちの恋人であった直子、
それに、ワタナベが大学で出会った緑、
この三人を軸にした物語であったことはおぼろげながら憶えていたが、正直、それ以外のことはほとんど忘れていた。
今回、映画を見に行くにあたって、もう一度読んでから行こうと思った。
書棚の奥から、本を取り出す。
23年ぶりの再会。

奥付を見ると、初版本であった。
美本であるので、古書店に持って行けば、少しは高く買ってくれるかもしれない。(笑)

再読した結果、新しい発見があった。
暗い小説だと思っていたが、随所に笑える場面があり、けっこう面白い小説であった。
登場人物も、上記の3人の他に、
寮の先輩・永沢、
永沢の恋人・ハツミ、
療養所で直子と同居しているレイコなど、
重要な脇役がいて、特にレイコに関しては、これほど彼女の描写が多かったか……と、認識を新たにした。
ただ、この小説の重要なテーマのひとつが「死」であることは、23年前の印象に間違いはなかった。
それから「性」。
「性」に関する描写は、思っていた以上に多かった。
〈こんなにたくさんあったっけ〉
と驚くほど。(笑)
『ノルウェイの森』が出版された当時は、(弾ける寸前ではあったが…)まだバブルに浮かれていた頃で、誰もが何か憑かれたように奇妙な行動をしていた。
そんな時代にベストセラーになった小説ではあるが、この作品は、自殺者が年間3万人を超えるようなった今こそ読まれるべき小説ではないか……と思った。
ある意味、時代を先取りした作品であった。
それほど今日的なテーマの物語である。
いや、今日的と言うより、普遍的なテーマであった……と言い替えるべきであったかもしれない。
だからこそ、広く全世界で読まれているのだろう……と思う。
で、映画である。
映画はどうだったかというと……
正直、これがあまりよくなかった。
原作を読んで行ったことも作用しているのかもしれないが、映画を見ている間、ずっと違和感があった。
登場人物に、
科白に、
風景に、
全体から醸し出される空気感に……
それは、監督が外国人ということも影響しているのかもしれない。
『青いパパイヤの香り』『夏至』など耽美的・叙情的な映像で独自の世界を創り出すトラン・アン・ユン監督の過剰なオリエンタリズムに、やや辟易したからでもある。
日本が舞台でありながら、無国籍な雰囲気が漂う。
登場人物が日本人でありながら、誰もが異邦人のよう。
科白は相手に向かって発せられず、自問自答に陥っている。
1967年前後の風俗が出て来ても、空気感がまったく違う。
【ストーリー】
高校時代に親友・キズキ(高良健吾)を自殺で喪ったワタナベ(松山ケンイチ)は、誰も知っている人間がいない所で新しい生活を始めるために、東京の大学に行く。
ある日、ワタナベは、偶然直子(菊池凛子)と再会する。
直子は、かつてキズキの恋人だった。
キズキはワタナベにとって唯一の友だちだったので、高校時代にはワタナベも直子もよく一緒に遊んでいたのだった。

それからワタナベと直子は、お互いに大切なものを喪った者同士、付き合いを深めていき、ワタナベは透き通った目を持つ直子に次第に惹かれていく。

そして、直子の二十歳の誕生日に二人は夜を共にする。
ところが、ワタナベの想いが深まれば深まるほど、直子の方の喪失感はより深く大きなものになっていき、直子は結局京都の療養所に入院することになる。
そんな折にワタナベは大学で、春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい女の子・緑(水原希子)と出会う。

直子と会えないワタナベは、直子とは対照的な緑と会うようになっていき、ある時、緑の自宅での食事に招かれて唇を重ねる。
それはやさしく穏やかで、何処へいくあてもない口づけだった。

その後、直子から手紙が届き、ワタナベは直子に会いに行けることになる。

そこで、ワタナベは、直子の部屋の同居人・レイコ(霧島れいか)のギターによるビートルズの「ノルウェイの森」を聴くことになる。
それは、直子が大好きな曲だった。
「ノルウェイの森」を聴くといつも泣いてしまう直子は、ワタナベがいれば大丈夫と言っていただが、それでも結局直子は泣いてしまうのだった……(ストーリーはパンフレットから引用し構成)

やはり、いちばんの違和感は、直子を演じた菊池凛子だ。
原作の、20歳の処女というイメージとは程遠いからだ。
菊地凛子は1981年1月6日生まれだから、現在29歳。
映画の冒頭、高校生姿の菊池凛子が出てくるが、この時点でもう無理があった。
決定的に違うのは、やはり神々しいまでの美が不足している点だ。
ワタナベにとって、女神みたいな存在の直子は、やはり美しくなければならない。
それも透明感がある壊れそうな美が……
スクリーンに直子の顔がアップになった時に、映画を見に来た者すべてが納得できる美を持っていなければならない。
菊池凛子には、それがなかった。
だから、冒頭からこの映画に入り込めない。
ストーリーに入り込めなかった。
演技ではかなり頑張っていたが、演技力だけではカバーできない部分が大きかった。

ストーリーも、原作を端折りすぎて、原作を読み込んでいなければ理解不能であろうと思われる部分が多々あった。
なぜ自ら命を絶つのか?
なぜここでセックスするのか?
「死」と「性」をテーマにしていながら、あまりに情緒的過ぎて、すべてのシーンがただ流れて行ってしまう。
『ノルウェイの森』を読んだ誰もが、ワタナベは自分のことだと思い、直子は私のことだと思うらしい。
読者の数だけ、それぞれのワタナベと直子がいるのだ。
トラン・アン・ユン監督も、そういった読者のひとりとして作品に向かい、長い年月をかけてこの映画を作ったものと思われる。
この映画は、まぎれもなくトラン・アン・ユン監督の解釈した『ノルウェイの森』であり、そういう目で見るのが正しい見方なのかもしれない。
だが、映画鑑賞者は勝手なものだ。
自分のイメージに合わないと、違和感を感じてしまう。
この作品で、ちょっと嬉しかったのは、緑を演じた水原希子に逢えたことだ。
私はこの作品で水原希子という女優(?)を初めて知った。
経歴を調べてみると、
1990年、米テキサス州生まれ。
12歳だった2003年、雑誌『Seventeen』のミスセブンティーンに選ばれ、モデルとなる。
以降、『ViVi』ほか多数の女性誌で活躍。
オーディションにより本作の緑役を射止め、俳優デビューを果たした。
ということで、若い女性の間では有名だったらしいが、中年のおっさんである私は知らなかった。
本作がデビュー作なので、正直、演技はそれほど巧くなかった。
ただ、その存在感が抜群であった。

私のイメージする緑の役柄とはかけ離れているし、演技力もないので、普通ならガッカリなのだが、そうならないのは、彼女が何かを持っているからに他ならない。
小説でもそうであったが、この映画でも、緑が唯一の明るい日差しとなっている。
感情を屈折したした形でしか表現しない登場人物たちの中で、緑だけが素直に喜びや怒りを表す。
普通に感情を表現する彼女に、読む者、見る者は、ホッとする。
誰もが緑を好きになる。
そういう意味では、幸運な役を得てのデビューと言えるだろう。
今後の活躍が期待される。