一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

人生の一日(44) ……お好み焼き屋のおやじさん……

 

あれはもう41年ほど昔、1985年(昭和60年)のことである。

なぜはっきり憶えているかというと、私の長女が生まれた年だからだ。

当時、30歳の私と(前年に私と結婚した21歳の)配偶者は、

私の仕事の関係で福岡市中央区(の賃貸マンション)に住んでいた。

 

1985年2月が出産予定日だった私の配偶者は、

年明け早々、出産のために、彼女の実家(佐賀県)に帰った。

一人取り残された私の夕食は、

(自分で作るのは面倒くさかったので)大抵、外食だった。

福岡市中央区とは言っても、橋ひとつ隔てて隣は早良区西新で、

 

最寄り駅も、地下鉄の西新駅だったので、

仕事帰りに西新にある飲食店に寄って、食べて帰るのが常だった。

 

そのうちお気に入りの店もできた。

それは変わった名前のお好み焼き屋さんだった。

私がお好み焼きが好きだったこともあり、

お好み焼きを食べ、ビールを飲みながら、

その店のおやじさんと話をするのが楽しみだった。

優しい感じの気の好いおやじさんで、

(元来、私は人見知りなのだが)そのおやじさんとは不思議と馬が合った。

どんなに仕事で疲れていても、

好きなお好み焼きを食べ、好きなビールを飲み、店のおやじさんと話すと、

疲れも憂さも吹き飛んだ。

春になり、配偶者が赤ちゃん(長女)を連れて戻って来ることになり、

この店に食べに来るのもいよいよ最後という日に、

気になっていたことをおやじさんに訊こうと思った。

それは、このお好み焼き屋さんの店名が、

「チャゲの店」という変わった名であったからだ。

さあ訊こうと思って、ふと店の片隅を見ると、

若い数人の男女が和気藹々と何やら話し合いをしていた。

〈何かのサークルなのかな?〉

と思いつつ、彼らの席の背後に目をやると、

壁に貼ってあるポスターが目に入った。

それは「チャゲ&飛鳥」(後の「CHAGE and ASKA」)のポスターだった。

私は「あっ」と声が出そうになった。

〈そうだったのか……〉

この店はチャゲさんのお父さんがやっている店だったのだ。

 

後から知ったことだが、

このお好み焼き屋さんの本当の店名は「麻里」という名だったらしく、

 

「チャゲの店」という看板は新しく取り付けられたものであったようだ。

そしてこの店は「チャゲ&飛鳥」ファンのたまり場でもあったようなのだ。

チャゲさんのお父さんは、元々、福岡・天神で「八作」という天ぷら屋さんをされていて、後に、西新で、奥さんと共に「麻里」という名のお好み焼き屋さんをやっていたそうだ。

まったく気が付かず、気安くチャゲさんのお父さんと話していた私はバカ者である。

 

そんなことがあってから30年後の2015年、

朝日新聞の連載コラム「おやじのせなか」にChageさんが書いた文章が載った。

 

Chageさんのお父さんは、特攻隊の生き残りで、

鹿児島の基地に配属されて、

ベニヤ板で作った「震洋」というボートに弾薬を積んで特攻する予定だったが、

エンジン不良で助かり、18歳で終戦を迎えたという。

「戦争はいかん、意味がない」

と、生前ずっと仰っていたとか。

Chageさんがデビューして5~6年した頃に、

お父さんに「鹿児島に連れて行って欲しい」と頼まれ、

基地跡地へ行ったことがあるとか。

近づくにつれてお父さんには思い出が蘇り、

駆け出して、そして泣いていたそうだ。

お父さんは、金銭欲とか出世欲とか名誉欲とかは皆無で、

11年前(2004年頃)に、包丁2本だけ残して亡くなられたそうだ。

Chageさんには、ずっと、

「自由に生きろ」

と、仰っていたという。

 

私は、Chageさんが書いたコラムで、Chageさんのお父さんの死を知った。

あの穏やかで、優しい笑顔の裏に、

〈そんな過酷な過去があったのか……〉

と、思い知らされたのだった。

40年以上前の、ほんの2~3か月のふれあいであったが、

Chageさんのお父さんとの思い出は、今もずっと心に残っている。