
『カラマーゾフの兄弟』読了計画の第18回は、
第3部、第7編「アリョーシャ」の、

第1節「腐臭」
第2節「そのチャンスが」
第3節「一本の葱」
第4節「ガリラヤのカナ」
を読みたいと思う。

第3部、第7編、第1節「腐臭」

【要約】
永眠したゾシマ長老の亡骸は、定められた礼式にのっとり埋葬の準備が進められた。これらすべての儀をパイーシー神父が執り行った。そのパイーシー神父が気をもんでいたことがあった。それはゾシマ長老の死によって奇跡が起きるのではないかという、僧侶や世俗の人たちの間にも広まっている前代未聞の「あるまじき」興奮と、せっかちな待望の念だった。奇跡による治癒を期待し、(長老の死を待ちかねたように)病人を引き連れた人たちが押しかけて来た。パイーシー神父は僧庵の外れでアリョーシャを見かけるが、彼は両手で顔を覆い、声を立てず体をふるわせて泣きじゃくっていた。パイーシー神父は、「泣くのもよかろう。キリストさまが遣わされた涙とあればな」と言ってアリョーシャのそばを離れた。正午を過ぎ、ある異様な事態が起こり始めた。ゾシマ長老の亡骸を納めた棺から腐臭が漏れ出し、そのことが修道院の内外に伝わって大騒ぎになったのだ。「聖人の亡骸は腐敗せず、芳香さえ漂う」という言い伝えがあったことから、修道院に押し掛けた弔問の人々や修行僧、特に長老制を敵視する者たちは、ゾシマ長老に否定的な見解や罵りの言葉を述べた。ゾシマ長老を毛嫌いしていたフェラポント神父が「悪魔はわたしが退治してやる!」と叫びながら現れ、「苦行僧の身分にあるべき斎戒を守らなかった。だから啓示が下されたのだ。これは火を見るより明らかなことで、それを隠すなどというのはもってのほかだ!」と罵った。庵室の入口につめかけた群衆の中にアリョーシャを見かけたパイーシー神父は、「もしかして、おまえまで惑わされているわけじゃあるまいね?」と声をかけると、アリョーシャはなぜかうつろな目でパイーシー神父を見やったが、またすばやく目をそらし、うつむいてしまった。「もしかして僧庵を出るつもりなのかね? まさか、許しも祝福も受けずに出ていくわけじゃあるまい?」と訊くと、アリョーシャはふいにゆがんだ笑みを浮かべ、奇妙な視線を投げ、僧庵の出口に向かって早足に歩き出した。
聖人の遺体は腐らないというのは、ロシア正教の伝統で、
腐らないからミイラになるのだが、
ソビエト政権下でも、レーニン廟にレーニンのミイラが祀られたという事実がある。
無神論国家でも、ロシア正教的な表象が利用されていたというのが面白い。
第3部、第7編、第2節「そのチャンスが」

【要約】
アリョーシャは不信心の輩と同類ではない。彼のすべての動揺は、彼の信仰がきわめて篤かったからこそ生じたのだ。彼に必要だったのは、新しい奇跡ではなく、ひたすら「最高の正義」であり、彼の信念によれば、それがうち砕かれ破り去られたからこそ、彼の心はあれほどにも無残に、唐突に傷ついたのだ。心義(ただ)しい聖人のなかでもとりわけ心義しい長老が、自分よりはるかに卑しく浅はかな群集の、ああしたむきだしの嘲りや憎しみにさらされたことを、彼はもう屈辱と内心のいらだちなしに耐えることはできなかった。どうして神は「いちばんだいじなときに」(アリョーシャはそう思った)ご自分の手をお隠しになり、目には見えずものも言わない無慈悲な自然の掟に、自分をゆだねるなどという気になられたのか? 昨日イワンと交わした会話を思い出すと、何か漠とした重苦しい、悪い印象が、彼の魂のなかで今またふいにうごめきだし、それがますます力をおびて、魂の表面へ浮かび出ようとするのだった。アリョーシャが木陰で地面につっぷしているところに、ラキーチンが通りかかり、「君のあのじいさんが悪臭放ったってだけで、そんななのかい? なに、あのじいさんが何か奇跡をやらかしてくれるって、本気で信じていたのか?」と訊いた。アリョーシャが、「そうさ、信じていたし、信じているし、信じたいんだ」と答えると、ラキーチンは「いまどき、十三歳の中学生だってそんなこと信じちゃいないのに」と呆れ、嘲った。ラキーチンが「ウォッカを飲みに行こう」と誘うと、アリョーシャが乗ってきた。歩き出したところで、ラキーチンに新しいアイデアがふいに閃き「グルーシェニカのところへ行かないか?」と言うと、アリョーシャも「行きましょう」と同意した。ラキーチンがグルーシェニカの家にアリョーシャを連れていくのは、彼女を喜ばせるのが目当てではなかった。目的は二つ。一つは、復讐の意味合いをおびる目的。もう一つは、ある物質的な目的。〈そのチャンスが訪れたってわけだ〉と彼は腹のなかで思い、ほくそ笑んだ。
聖人の遺体は腐らないという伝説があったのに、
ゾシマ長老の遺体からは腐臭が発せられた。
神はゾシマ長老を見捨てたのか?
長老と深い絆で結ばれていたアリョーシャは激しく動揺する。
どこに、摂理は、神の御手はあるのか? どうして神は「いちばんだいじなときに」(アリョーシャはそう思った)ご自分の手をお隠しになり、目には見えずものも言わない無慈悲な自然の掟に、自分をゆだねるなどという気になられたのか?(第3巻44頁)
アリョーシャは、このとき初めて激しい信仰のゆらぎに直面したといえる。
第3部、第7編、第3節「一本の葱」

【要約】
グルーシェニカは17歳の頃に、ある将校にだまされ、その後すぐに棄てられ、恥辱と貧困にまみれて暮らしていた。その彼女を貧困の淵から救いあげたのが、商人のサムソーノフという老人であった。グルーシェニカの公然たるパトロンとなったサムソーノフは、18歳のこの愛人を親戚が所有する屋敷に住まわせ、すでに4年の月日が経っていた。この4年間で、感受性の強い、傷を負った、孤児同然の哀れな娘は、血色のいい、豊満なロシア美人に生まれ変わっていた。それだけではなく、大胆で、横柄で、プライドが高く、利殖の話に通じ、事業家顔まけの儲け上手で、一財産を築きあげていた。フョードルと知り合ったのも、一緒に組んで手形の買い占めをしたことが縁だった。ラキーチンとアリョーシャがグルーシェニカの家を訪ねたとき、黒い絹のドレスを着た彼女は、ソファに寝そべって誰かを待っていた。グルーシェニカはドミートリーを騙して、本当はサムソーノフ老人の家にいる筈なのに、家にいて、大事な知らせを待っているのだという。アリョーシャにとってグルーシェニカは、どことなく恐ろしい女性というイメージが出来上がっていたが、今日の彼女は一昨日とは違って感じが良かった。実は彼女は、自分を棄てたポーランド人将校から手紙をもらい、妻を亡くした将校が彼女を迎えに来るというので、それを待っていたのだった。グルーシェニカはアリョーシャの膝の上に(猫が甘えるように)ひょいと座って、「アリョーシャ、あんたのこと、まるで自分の良心の鏡のように見ているときもあったの。ずっと考えていたわ。《あれだけの人なんだから、いまごろはきっと、わたしみたいな汚らわしい女、軽蔑しているにちがいない》ってね」と言うと、アリョーシャは、「ぼくがここに来たのは、人間の邪悪な心を見つけるためだったんだ。ぼく自身がそんなふうに惹きつけられたのは、ぼくが卑劣で、邪悪な人間だったからさ。でもね、ぼくがここで見つけたのは、誠実な姉さんだった。大事な人だった……愛する心だった……この人はさっきぼくに優しくしてくれた……アグラフェーナさん、あなたのことを言っているんです。あなたがいま、ぼくの心を蘇らせてくれたんです」と伝えた。それを聞いたグルーシェニカは、一本の葱のおとぎ話に出てくる女のように自分は意地の悪い女だと言い、以前はアリョーシャを誘惑する企みを持っていたこと、自分を棄てた将校を憎んで復讐してやろうと思っていたことを打ち明けた。グルーシェニカは、将校を許すべきか許すべきじゃないかをアリョーシャに問う。アリョーシャは、「だって、もう許しているでしょう」と答えた。グルーシェニカは感謝し、アリョーシャは、「あなたに一本の葱をあげました。ほんとうに小さな葱をね。それだけです。それだけのことです!」と言った。そこへ将校からの迎えの馬車が到着し、御者が持参した手紙を読んだグルーシェニカは将校のもとへ行くことを決意する。グルーシェニカはアリョーシャに、ドミートリーへの伝言を託した。「グルーシェニカはあなたを一時間だけ愛したことがある、たった一時間だけど、愛したことがあったって……だから、この一時間のことを、これから一生忘れないでほしいって、グルーシェニカがそう言ってましたって、一生よ!」と。ラキーチンは、アリョーシャを連れてくれば報酬として25ルーブルをグルーシェニカから受け取れることになっていたのだが、そのことを彼女からバラされた上に、自分の目論見とはまったく違う事態が起こり、グルーシェニカや将校の悪口を言った後、アリョーシャを闇の中に一人置き去りにして去ってしまう。アリョーシャは修道院に向かって歩き出す。
第3節のタイトルにもなっている「一本の葱」というおとぎ話の内容は、
本文の中で紹介してあるのだが、
「一本の葱」にインスパイアされたものであったことがわかる。
第3部、第7編、第4節「ガリラヤのカナ」

【要約】
アリョーシャが僧庵に着いたのは、もうかなり遅い時刻だった。庵室には、棺の前に立って福音書を朗読しているパイーシー神父と、疲れ果てて眠りをむさぼっている見習い僧がいるだけだった。アリョーシャは、ひざまずき祈り始めた。心は甘くやすらかで、疼くような切ない悲しみはなかった。ガリラヤのカナにおける婚礼の場面が朗読されているのを聞きながら、アリョーシャはまどろみ始め、様々な思いが頭をよぎる。アリョーシャの夢の中にゾシマ長老が現れ、アリョーシャをたすけ起こし、「ワインを楽しもう」と言い、「愛らしい子よ、はじめなさい、おとなしい子よ、自分の仕事をはじめなさい!……ほら、わたしたちの太陽が見えるかね、おまえにあれが見えるかね?」と言った。アリョーシャの心のなかで、何かが燃え、何かがふいに痛いほど心を満たし、歓びの涙が、魂からほとばしった……彼は両手を差しのべ、ひと声叫ぶと、眠りから覚めた。不思議なことに、彼はひざまずいたまま眠りこんでいたのだが、いまは両足で立っていた。そして突然、その場からはじかれたようにしっかりした早足で三歩進み、30秒ほど棺の中の亡骸を見つめた。アリョーシャの耳元ではまだ長老の声が鳴りひびいていた。アリョーシャはいきなり身を翻すと、そのまま庵室を出て行った。歓びに満ちあふれた彼の魂は、自由を、場所を、広がりを求めていた。アリョーシャは立ったまま、星空を眺めていたが、ふいに、なぎ倒されたように大地に倒れこんだ。なんのために大地を抱きしめているのか、自分にもわからなかったし、どうしてこれほど抑えがたく、大地に、いや大地全体に口づけがしたくなったのかさえ理解できなかったが、それでも彼は大地に泣きながら口づけをし、むせび泣き、涙を注ぎながら、有頂天になって誓っていた。大地を愛すると、永遠に愛すると……。地面に倒れたときにはひ弱な青年だった彼は、立ち上がったときにはもう生涯変わらない確固とした戦士に生まれ変わっていた。三日後、アリョーシャは修道院を出たが、それは、今は亡き長老が命じた「俗世で生きるがよい」との言葉にも適っていた。
アリョーシャは、ゾシマ長老の棺が置かれた僧庵に入り、
傍らで祈りを捧げるうちに、いつしか眠りに落ち、不思議な夢を見る。
福音書にあるイエス・キリストが水をぶどう酒に変える奇跡を起こした、
ガリラヤのカナの婚礼の場面が再現されるのだが、
そこには、なぜか、ゾシマ長老の姿もあり、
長老はアリョーシャに、「自分の仕事をはじめなさい!」と言って、
彼を立ち上がらせる。
アリョーシャは大地に口づけをして、大地を愛すると誓う。
訳者の亀山郁夫は、「これは、ことによるとアリョーシャが経験する初めての啓示だったかもしれません。その啓示は、けっして観念的なものではなく、大地にしっかりと根づき、なおかつ宇宙とも結びついている。つまり、大地、宇宙、生命が三位一体となる独特の感覚です。こうした彼の精神的復活のあり方は、キリスト教というよりもドストエフスキーが長年抱いてきた独特の世界観(ロシアの大地から生まれる精神性や文化を重視する土壌主義)をも象徴するものであると考えられます」と述べる。
地面に倒れたときにはひ弱な青年だった彼は、立ち上がったときにはもう生涯変わらない確固とした戦士に生まれ変わっていた。(第3巻108~109頁)
アリョーシャの「復活」は、一人の聖者としてではなく、
より根源的な存在としての復活が意味されているのだが、
書かれざる『カラマーゾフの兄弟』の続編(第二の小説)での、
アリョーシャの変貌をも予感していたのかもしれない。
次回は、第3部、第8編「ミーチャ」を読む。
