
先日、新聞を読んでいたら、
生命誌研究者で理学博士の中村桂子さんの(1981年に書かれた)エッセーから、
「コピーというもの、とってしまえば一安心というところがあってつい読みそびれることがある」
という言葉を引用して、
いつでも確認できるという安心感は、
「読む」「見る」といった行為から、真剣さを失わせる……と、注意喚起していた。
デジタル社会になり、紙のコピーをとることはさすがに少なくなったが、
現代では、
TVで放送される番組や映画などを録画したり、
DVDやBlu-rayディスクなどを購入した場合なども、
いつでも観ることができるという安心感から、
観ることなく、記録や録画だけが溜まっていってしまい、
古ぼけたり、情報価値がなくなったり、興味そのものが失せてしまったりして、
(ついに、観られることなく)消去されたり、廃棄されてしまうことが少なくない。
私自身も、
10年ほど前に断捨離したときに大量のVHSの録画テープを廃棄したばかりなのに、
今また、録画されたBlu-rayディスクが大量に溜まっていきつつある。(笑)
笑い事ではないのである。
これは以前にもこのブログに書いたことだが、
小さなTSUTAYAくらいの規模(本は2万冊、DVDや CDは3万点)をコレクションされていた小倉智昭さんは、近著で、
映画のDVDとかCDとか封を切ってない、ビニールでパックされたまんまのやつとかあるんだよ。後でゆっくり見よう、聴こうと思ってとってあったもの。それをそのまま封を切らないで死んでしまうんじゃないかとかって最近思うよね。
と、語られていたが、昨年(2024年)の12月9日に亡くなられてしまった。
これは自戒も込めて言うのだが、
いつでも読むことができる、いつでも観ることができるという“環境づくり”そのものは悪いとは言えないのだけれど、その環境によって生み出される安心感や満足感は、
時として人をダメにしてしまうように思う。
記録、録画できる電子機器、情報通信機器が普及したことにより、
記録、録画しさえすればいつでも見たり聞いたりできるし、
記録、録画せずとも、ネット環境が整ってさえいれば、
動画配信サービス等によって、いつでも過去の映画やライブ映像も視聴できる。
喜ぶべきことなのに、
これも、「人間にとってはたして幸せなことなのか」と疑問に思うこともある。
自分の部屋でリラックスして何度でも繰り返し観ることができるという環境は、
〈なんならもう1回観ればいいや〉
という、真剣味を欠いた“流し見”につながる恐れがあるし、
時間の浪費(無駄遣い)にもつながるように思う。
私個人の体験でも、
山に行って、写真を撮ることに一所懸命で、
被写体を自分の目でちゃんと見ていないことがある。
御来光も、珍しい花も、写真に撮って、それで満足してしまっているのだ。
映画を見るのにも、昔は真剣勝負で、「二度目はない」という感覚で見ていた。
「後で、ネット配信やDVDなどで確認すればいいや」という現代とは、
自ずと真剣さが違っていたように思う。
以前、このブログに、
という記事を書いたが、
毎日会っていた恋人同士も、別れ話が決まると、もう翌日から会うことはないし、
今朝送り出した人と、(災害や事故等で)突然会えなくなることもある。
高齢になればなるほど、「二度目はない」という感覚が身近なものになってくる。
私も70代になり(より強く)何事にも「二度目はない」という感覚を抱くようになった。
TV番組を録画はしても、ダビングして保存することはほとんどしなくなったし、
写真を撮る前に、カメラだけではなく、己の目でもしっかり被写体を見るようになった。
(対人関係も含め)すべてのことにおいて、一期一会の心づもり向き合うようにもなった。
「二度目はない」という感覚を強く持ち続けることによって、
ややもすれば無自覚で、自堕落な生活に陥りがちな70代を、
10代のとき以上に、ヒリヒリするような感覚で過ごせているように思う。
